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10/9,10/12

10、12 ノーベル平和賞
  天日干ししてある稲を乾燥は十分ではないが、台風が来るので脱穀した。
今年の収量は玄米換算で合計約900kg。十分満足できる収穫量である。籾の重さが嬉しく満足感がある。23年の大水害の後は何故か半作以下の不作が2年続いた。今年は水害前の収量に戻った。来年も作ろうと意欲がわいてくる。この感覚が支えになる。台風が去ったらもう一度天日干しをして保存する。滞在者が増えても、主食は問題ないだろう。台風が去ったら小麦を蒔く準備。

  17歳の少女がノーベル平和賞を受賞した。どんな背景があったのかは知らないが、本人にとっては大変な看板を背負ったことになる。余計なお世話だが、看板に左右されないで、自身の良心に従って生きることが大事な事だと思う。
10代の志を生涯貫き通すことは、至難のことだと思う。彼女には良き師がついているのだろうか。良き道志がいるのだろうか。まわりの大人は彼女に勝手な期待もするだろうし、最大限に利用しようと画策もするだろう。操り人形ではなく、心ある女性としての人生をと願わずにはいられない。

  最近自分のまわりに移住してきた、若い女性が何人かいる。滞在する女性もいる。彼女たちは果たしてどんな志を持って、生活しているのだろうか。そんな視点で見るのは酷だろうか、、、、、。 何れ母親に成る可能性がある女性たちである。しっかりと自分を成長させてもらいたいと願っている。自分は男性には寛大で優しいが、女性にはとても厳しく接すると言われる。他人から見ればそう見えるだろうと思う。若い女性をみていると母親になる心構えと準備を、どれほど自覚しているのだろうかと心配になる。子どもは母親の胎内で10月を過ごし、生まれてきたら母親の影響を一番受けながら成長する。女性だけに責任を押し付ける気はない。父親になる男性の責任も重大である。優しいだけの男と、強いだけの女性が増えているような気がする。男の本質は優しさであり、女の本質は強さだと思う。性を自覚して努力しなければ、強さと優しさのバランスはとれない。成長の段階で男は強く、女は優しくと教育を受けなければ、性の特質を自覚できないだろう。男女平等を男女同等と勘違いしているように思えてならない。優しさの裏付けのある強さでなければ、真の強さとは言えない。強さの裏づけのある優しさでなければ優しいとはいえない。

  何時の時代でも親子の葛藤はある。人間同士の葛藤は、程度問題は別にして避けることはできない。最近親子の関係が何かおかしな方向に進んでいるように思う。
毒母とか毒親などという活字を目にすることがある。女性の価値観が一人歩きして結果だと思う。女性を労働者として価値付けようとしている、考え方が間違っているように思う。何でもお金に換算してしまう価値観がおかしい。女性の尊厳を賃金労働者の価値基準で計ってはいけない。人間は賃金労働者ではない。まして母親は。父親も同じこと。今回60代と10代の女性がノーベル平和賞を受賞したことが、女性の尊厳に対する警鐘になればと願わずにはいられない。
  


10,9 安い人生
  残っていた10aの稲刈りが終わった。天日干しをするので脱穀は天気次第。
台風が気になるが、どうすることもできない。自分の思い通りにいかないのが農業の面白さという宿命。人生と同じこと。農業を通して人生を学んでいる。ありがたいことである。
  今年を最後に米作りをやめる農家が何軒あるのだろうか。来年から新しく米作りをする人が何人いるだろうか。やめる農家は万単位だと思うが、新規就農者は1割もいるだろうか。

  朝起きたら食べ物がある。夜が来たら寝る場所がある。この二つがあれば安心して生きていけるはずだが、そうはいかないのが人間と言う生きもの。
面白くもあり悲しくもある。悲喜こもごものドラマが展開されている。質素に生きることが出来れば、安心感は増幅される。名誉だとか社会的な評価だとか、物質的な豊かさを求めるから、自ら困難な問題を抱え込むことになる。自業自得ということか。

  高齢の為耕作出来なくなった農地を、無償で借りて食べ物を栽培している。公共物でありながら、活用できなくなった小学校の校舎を無償で借りて活動の拠点としている。人様の所有物を無償で借りて、食べ物と寝る場所を確保している。
だからできる事がある。出来ることを出来る範囲でしてきたと思っている。ささやかな自己満足でもある。何時まで出来るだろうか。

  自分の中にはこれでいい、この程度のことしか出来ないという思いがある。
朝起きたら食べるものがあり、夜になったら寝る場所がある。この程度のことに満足できる自分は安い人生を過ごしていると思う。

2014年9月~10月の日記

 10月4日 おかしな話
 稲を収穫した田んぼに、今度は小麦を蒔く。所謂二毛作である。同じ圃場で米と麦が収穫できる。無農薬無科学肥料で、素人が栽培しても10a当り年間で約600kg程度の穀物が収穫できる。上手に作れれば1トン近くの穀物が収穫できる。米は自給率100%超えているのに、小麦の自給率は15%程度。おかしな事態が何十年と続いている。お金を儲ける為には色々なからくりが有る。知らず知らずにそのからくりに組み込まれていく。お金を出して、健康に悪いものを口に入れる。病気になって医療費を払うことになる。風が吹けば桶屋が儲かる。誰かのお金儲けのために、自分の人生を捧げたいとは思わない。経済的には貧しくてもそれは受け入れていく。お金のために心身の健康を、犠牲にはしたくない。自分の人生の主人公は自分。経済を中心とした考え方からすれば、おかしな話である。



10月3日 神から紙へ
  おかげさまで、第一弾の稲の収穫が終わった。今年はあえて田植えを遅くし、品種も晩稲に代えた。8月に台風で田んぼは水に浸かったが、未だ出穂をしていなかったので影響はなかった。もしも例年通りだったら大打撃を受けていたと思う。23年の大水害以降不作が続いたが、今年は水害前の収穫量に近づいたと思う。
玄米換算で600kgぐらいかな。後約10a分は15日前後の稲刈りになる。

近所のおじさんは、来年米作りは、しないと話していた。自分も止めたら西敷屋の農地は殆ど荒地になってしまう。どうやら地域で唯一の農業者になってしまうようだ。こうして地域は消滅していくことになる。全国でどれだけの地域が消滅していくのだろうか。地域は消滅してもいいと思うが、農地が消滅していくことに、どれだけの危機感も持っている人がいるだろうか。人間の生命は農地に依存していると言う事実を、どれだけの人が自覚しているのだろうか。地域づくりに取り組んでいる人たちは、沢山いるけれど意識は何処にあるのだろうか。

地方創生担当大臣が生まれたが、経済を中心に考えたら地方『葬制』担当大臣になってしまうだろう。既に水面下では地方創生という餌に群がる人たちが、お金を求めて動き出しているだろう。貪欲な人たちの餌が過疎化から、創生に代わっただけのことにならないように、願うがどうだろうか。

仕組みや制度をどんなに変えても、人間の考え方価値観が変わらなければ同じこと。人間としての心のあり方を創生しなければ、お金に振り回されるだけのこと。
   地方の疲弊は加速するだろう。悩み苦しみ傷つく人たちは増えることになるだろう。

    銀行券という何の価値もない紙幣に翻弄されるのは、いい加減にやめた方がいいと思う。日本の歴史の中心は、神から途中お上に変わり、現在は紙に代わっただけのこと。もう悪夢から覚めてもいい頃だろう。自分は畑を耕し生きていく。
     



9月28日 無償の連鎖
  5日前に腰痛が再発して、丸3日間は寝たきりの状態だった。今は少し歩くことも出来るようになった。外では昨日から稲刈りが始まった。滞在者4人と助っ人数人で刈り取ってくれた。思えば昨年も腰痛で稲刈りが出来なかった。腰痛の原因は自分では解っている。自分の弱さであり甘さである。

 よく無償の連鎖について質問されることがある。例えば今回の稲刈りには、延べ13人が関わった。13人に日当計算をして、賃金を払うと約10万円が発生する。
世間の常識を基準にすれば、当然のこととして10万円を支払うことになる。とすると収穫した米を換金したくなる。つまりお金の計算の連鎖が始まる。お金を支払う為に、お金を何処からか手に入れなければならない。お金を回すための歯車に組み込まれることになる。現在の世の中の仕組みはお金を中心として、その周りを人間の物質的な欲望が激しく動き回っている。人間が欲望に振り回されながら、のた打ち回っている。太陽の周りを地球が回っているように、お金のまわりを人間がくるくる回っている。人類の歴史でもある。

 自分はお金を中心としたいき方ではなく、人間の志を中心に回りたいと考え、実践している。今回の稲刈りを一生懸命にしてくれた人たちに対して、お金という対価は支払わない。だから収穫したお米を換金する必要は生じない。共育学舎に滞在する人には、無償で食事を提供できることになる。これから1年間多くの人たちの命を支えることになる。最初の第一歩で方向性は決る。お金に向かって第一歩を踏み出せばお金につかまる。志に向かって第一歩を踏み出せば無償の連鎖がスタートする。少なくともお金がなければ生きてはいけない、という常識からは開放される方向に進む事ができる。

 明治以降の日本の教育は、生きるためにはお金が必要だから、賃金労働をすることが大事なことだと教えてきた。言い換えれば賃金労働者を育てる為の教育ともいえる。若者が就活に最大の時間とエネルギーを費やしていることや、賃金労働が合わなくて引きこもっている若者も多くいることも、教育のなせる業である。
富国強兵が経済大国と看板を変えたが、中身は同じこと。

 お金は大事なものである。いくらお金が有っても生きることは出来ない。お金がなくても生きることは出来る。お金とはその程度に大事なものだと思う。

最初に自分がただ働きをすれば、無償の連鎖の第一歩である。その気になれば出来ることである。何故ならばお金がなくても出来ることだから。
少し大きい文字

4.14 誕生日


 昨日は我が人生で何回目かの誕生日。4歳の息子がケーキを張り切って焼いてくれた。歌も歌ってくれた。嬉しかった。我が人生最良の誕生日であった。

 今日は1年に1回の検診日。何処も異常なくこれから先1年間生命を頂いた感じになり心から感謝します。これからは一年刻みで生きるような年齢になったということ。

共育学舎の滞在者は今日現在男性が4人。女性が1人。

自分は何歳になっても、何をしているのか。何をしようとしているのか。自問自答しながら生きている。悩み迷いながら生きている。心は乱れる。
人からも何をしようとしているのかと、質問されることがある。答えはその時により違うことを話している様な気がする。嘘ではなくその時に心に浮かんだことを、なるべく正直に答えている。自分の気持ちは、日々刻々と変化している。変化した心を積み重ねている。ただ心の底にあるものは、人は何のために生きるのか、という疑問。これは14歳の時から何を考え、何をしていても、何処にいても変わらない。これから先も変わらないだろうと思う。もしも来世があるならば、そこでも同じ思いを持ちつづけているだろう。

 現代社会はネットと無関係ではいられない。ネットも使い方で毒にも薬にもなる。
現在クラウドファンディングが進行中。新しい縁が生まれている。まだ面識のない人とのつながりが生まれている。思えば一見不思議な世界であるが、情報が先にあって現実が後からついてくる、当たり前のことである。情報量が多くなるのでその処理能力が付いていかないと、情報に振り回されることになる。

 外から入ってくるものには、細心の注意が必要になる。食べ物も情報も。
現代人の多くは過食と情報過多で心と体のバランスを崩している。
体調を整えるには腸をきれいにしたらいい。心を整えるには、頭を整理したらいい。腸は第二の頭脳ともいう。巷ではこれがいい、あれがいいと情報が錯綜している。

自分で考え学び実践する。この道中の悩みや迷い葛藤を受け止める。その中で一筋の光を見出すが、光は消えることもある。変化を恐れると硬直し、隙間がなくなってしまう。隙間がないから余裕がなくなる。生きることは変化を受け入れることでもある。良いときも悪いときも。所詮一時のことである。

4.3 常識という怪物

4月1日の決意。衆議院に立候補し総理大臣の座を目指し、消費税を80%にします。

 人間には常識という怪物がつきまとう。多くの人間はまだ見たことのない怪物に恐れ抵抗が出来ないでいる。無条件で従うことで、何だかわからない安心を得ようとする。皆が従っているのだから、自分もあなたも従うのが当然でしょ。若い世代は情報網が発達した分だけ、常識は一般化され狭く浅くなっている。その反動で人と同じ事ではダメだ、だから殊更なことを考え衝動的な行動に出てしまうことがある。若者だけでなく世の中全体が、何か人とは変わったことをしなければと、追い立てられている。その結果として常識以前の当然なことが、失われていくことになる。得体の知れない情報が常識化して、時として首を絞めに来る。多くの場合に他人が絞めるのではなく、自分で自分の首を絞めてしまう。自縄自縛。言葉は知ってはいるが、意味を理解し、自分を解放すのは容易なことではない。この春も多くの若者が新天地に向かって飛びだっていたことだろう。初心を常識という真綿で包み込むことなく、何時までも初心を大事にしたらいいと思っている。常識以前に人間としての普遍的なことがある。当たり前のことがある。常識と混同しないで、学業や仕事を通して、自分を成長させてほしいと思う。

 最近、自己肯定と言う言葉を耳にすることがある。反対は自己否定。先日ある若者とどうしたら自己肯定が出来るのかと話になった。自己肯定も自己否定も自分で自分のことを認知することだと思う。ならば話は簡単明瞭である。自分を自分で肯定したら自己肯定、否定したら自己否定。自分の考え次第でどうにでもなる。
では自分を自分で何を根拠に認知するのか。自分で自分を観る目を自分で磨いていけば、磨いた分だけ認知が鮮明になり的確になってくる。常識と言う思い込みの雲の合い間から、本来の自分が姿を現すだろう。自分の性格と能力が自覚できるようになるだろう。他人と比較して優劣を決めるものではない。決められるものでもない。誰が決められるのか。意味も価値もないことに縛られることない。
性格は変わらないし変えられない。能力は鍛錬すれば向上する。どうにもならないことは素直に肯定したらいい。どうにか成ることは、どうにかするように努力したらいい。性格と能力を混同しないことである。自分を正確に認知し肯定したらいい。
認知が不正確なまま自己肯定したり自己否定することを、認知障害というのだろう。更に進めば認知症になる。

多くの若者が自己肯定とか自己否定とか優越感とか劣等感とか自分をどう認知するのかで迷い苦しんでいる。年を取れば認知症で多くの人たちを巻き込んで苦しめている。現在の日本は40数年前の1億総白痴から1億総認知障害になっていると言ったら言い過ぎだろうか。外から一方的に刷り込まれた常識から、目を覚ましてもいいだろう。川の流れの中にいては、どこから流れてその先に何があるのか解らない。土手に上がってみたときに流れを理解できる。理解したうえで流れに飛び込みたかったら、飛び込みたいところに飛び込んだらいいと思う。いやなら止めればいい。それだけのことだろう。
一回流れから離れて、高みの見物をするのも悪くないだろう。

 自己肯定も自己否定も自分次第である。生まれてから自我が目覚めるまでの成長過程では、環境から受ける影響が大きいことは確かである。親を含めた大人の責任は大きい。自我が目覚めた後は自己責任である。大人になったら環境を一方的に責めるのは責任転嫁だろう。かといって自己責任だと自分だけを責め続けるのも違うだろう。
環境の影響も認めたうえで、自分で自分をどうするかということ。大上段に構えるのではなく、気軽に休んだり考えたり遊んだり出来る時間と空間が必要だろう。
   得体の知れない原動力の、歯車になるだけが人生ではない。
   自分の人生は原動力にはなれないし、歯車にもなりたくないと考えている。自走まではいかないが、せめて自立して、自歩ぐらいはしたいと思っている。自己否定をして自分を責めて傷つけても、自己防衛にはなるが何の益もない。

    自分が作り始めたスラムは、強制力のない緩やかな空間。台所とトイレはあるが、玄関も座敷もない家のようなもの。家という常識では不完全だから、格式も権威もない。何の資格もとれないし、キャリヤにもならない。でも食べて寝ることは出来る。考えたり休んだり遊んだりすることは出来る。生きてはいける。
玄関も座敷もないから儀礼的な挨拶はいらない。入りたいときに入って、出たいときに出て行く。秩序はあるが規則はない。無法ではあるが無礼ではない。常識では計り知れない、しょうもないオッサンの自己満足であり道楽かな、、、。

田植えは5月18日の予定

3.31
 今年の田植えは例年より2週間遅くした。5月18日を予定している。籾はすでに塩水選をして水に浸けてある。今年はどんな夏になるだろうか。台風はどうか。獣害は、と、色々と気になることが多くなる。田植えが終われば小麦の収穫。今年は小麦の後作にも稲つくりをする。耕作放棄された農地のことを考えると、一年一作でなるべく広い農地を活用したほうがよい。しかし獣害がこれだけ増えてくると狭い面積の方がいい。今年は米と小麦の二毛作に挑戦する。
稲刈りをしてすぐ小麦の種まき。麦刈りをしてすぐ田植え。60年前までは当たり前のことだったが、いつの間にか小麦の栽培が消えてしまった。同時に食糧自給率は下降した。
小麦を自給できれば自給率は一気に上がる。年2回主食が収穫できるので安心感が違ってくる。そんなことは誰でもわかること。解る事とできることは違う。出来ることを積み重ねて生きる。是でいいのだと思う。

 若いころ国内と外国のスラムと言う場所に潜り込んだことがある。その中ではニューヨークが一番怖かった。インドでは妙な安心感があった。カーストのせいだろうか。子供たちが日本人観光客からもらってきた、10円玉や100円玉を両替してやっていた。日本円10円で安い定食が食べられた。お礼に子供たちからチャーイを奢ってもらったりしていた。チャーイは1円だった。嬉しそうに食べている子供たちの笑顔が忘れられない。今自分が畑に立っているのはそのときの経験が大きい。スラムに思いがあるのもそんな経験から来ている。犯罪の匂いのない明るく楽しい、スラムになったらいいと思う。

命がある間は誰でも生きることの出来る社会が望ましい。自殺が年間3万人。異常な事態である。せっかく命がありながら、もったいないと思う。生きることは辛くもある。不安であり不満もある。不信もある。悲しくなる時もある。そんなやり切れない気持ちを受け入れることのできる隙間が、人にも社会にも薄く狭くなってしまった。休んだり立ち止まったりすることが、許されないような気持ちにさせられてしまった。甘えたり依存することがいつの間にか、人間としてダメな評価をされるようになってしまった。人を許せないことが自分の首を絞めることになってしまった。人と人が助け合うことが希薄になってしまった。誰かを責めたり原因を追究してもどうにもならない。弱く愚かな自分を自分で許し、抱きしめることぐらいしか出来ない。何時でも何処でも自分を護って生きる。お金がなくても自分を大事にすることはできる。自分の命は一つしかない。理屈を抜きに一つしかないものは大事にしたほうがいい。

それにしても現在の日本では甘えたい人は一杯いるのに、受け止めてくれる人が不足している。甘えを受け止めてもらったことのない人は、甘えを受け止められない。経験がない事はできないことが多い。初めは甘えて依存する。成長できたら甘えと依存を受け止める。こんな循環でいいと思う。自分も出来る限りは受け止めたいと思い、少しだけ実践しているつもりだが、、、、、。
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