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10.18  自我を育てる


  自分も60代後半を迎えた。おかげさまで元気に生きている。加齢と共にそれなりに心身ともに変化はしている。衰えなのか、成熟なのか。
 
ふりかえってみれば、我が人生は人さまからは、常に評価の外にあった。変わった人、変なやつ。この言葉で片付けられてきた。世間の常識からは、はみ出していた。いつの間にか評価されないことには慣れてしまった。その分自分なりの生き方が、出来てきたように思う。他人との比較ではなく、自分なりに考えてみてのことである。何時ごろからか他人と考え方生き方が違っても、何の問題もないことを自覚できるようになった。

  人間はいつごろから賃金労働をすることを、前提として生きるようになったのだろうか。自分は成長段階で働くことは、賃金労働と同意語という認識を持つようになっていた。生きるためにはお金を稼がなければならない。家業を継ぐか、どこかに就職をしなければならない。そのことを前提として学校に通っていた。では何の為に学ぶのか、働くのか、生きるのか疑問が自分の中に生まれてきた。誰かから教えられたわけではない。むしろそんなことは考えることではないと諭された。まわりから諭されて批判されても、どうすることも出来なかった。ただ自分の中の疑問に対する答えが欲しかった。どうすれば答えが得られるのか解らなかった。教えてくれる人も周りにはいなかった。自分で試行錯誤しながら悶々としながら生きるしかなかった。自分では必死だったし真剣だった。まわりからは変なやつ、仕事嫌いなやつ、根性のないやつとしか見られなかった。自分では今度こそと色々なことに挑戦してみた。今となればそんな経験が、自分の肥やしになっているように思う。そんな経験の積み重ねの、なれの果てが今の自分の生き様である。

  何のために生きるのか。未だに考え模索している。今は何のためにと言うこともなく、ただ生きることでいいと思っている。

  何時の時代でも悩みや苦しみは尽きない。自分にとって逆境と考える環境をバネに生きるか、自分を傷つけながら生きるのか。どちらを選択してもいいと思う。前を見たり横を見たり後ろを見たりしながら、うろうろしながらでも生きていればいいのだと思う。賃金労働をしなくても生きる環境があるならば、無理に賃金労働をしなくてもいいと思う。皆が同じように経済活動や賃金労働や社会的な活動、文化的なものに邁進しなくてもいいだろう。

義務教育という枠にはめられ、労働と納税の義務を背負わされて生きる。それに逆らうものは認めないし許さない。許さないだけでは飽き足らず、二重三重のプレシャーをかける。その恐怖の中で右往左往する。被害者側になりたくないから、加害者側になりたいと言う心理に追い込まれる。勝ち組負け組みなどという、おかしなことが生まれてくる。義務教育という環境の中で、皆等しく鍛えられてしまう。朱に交われば赤くなる。教育は大事なことである。教育により生き方が決まる。今の現実社会は正に教育の成果である。国家が国民を教育する。国家が選抜した教師が、国家が検定した教科書をもとに教育する。国が決めた教育基本法という枠からはみ出すことを、許さない仕組みが見事に完成している。教育の自由とはいいながら、巧妙に鋳型にはめられていく。生まれたときから未だ判断力のつかないうちの、成長段階で一度固まった鋳型を外すのは容易なことではない。強固な意志と長い時間がかかる。国家と何なのか。何のために存在するのか。国民の生命財産を守るといいながら、愚にもつかない政策を施行し散財を繰り返す。時には戦場にかりだす。国のために生命財産を投げ出すことを強制する。多くの国民市民は不安の中で生活している。教育制度の問題ではなく、教育内容を考え直す時期に来ていると思う。一人ひとりが自分に向き合い、自我を自覚したほうがいいと思う。その後に自分なりの生き方がついてくる。最初に集団があり、集団の規則で生きるのではなく、最初に自分があり、自分の考えで生き、結果として周りの人との関係が生まれてくる。集団とはその程度の関係性でいいのだと思う。要はバランスのとり方である。バランスは自分のことが自覚できなければ、自分で取ることは出来ない。自分で取る事が出来ないから、まわりに合わせる事しか出来ないことになる。自分に出来ないから、まわりも同じようにすることを求める。『皆が』ということで片付けてしまう。安易な生き方になる。日本人の多くの人の主語は『皆』であり、『私』と自覚している人がどれほどいるだろうか。自分勝手なひとは確実に増えてはいる。私を自覚することと、自分勝手とは違う。

我が子も現在5歳。余計な鋳型をはめずに、自由な生き方が選択できるようにと思い接している。答えは彼の中にある。自我が育つような環境を整えることが、親としての務めだと心構えはしている。もうすぐ学齢に達する。自分の心に従い子どもと接する。子どもは子どもなりに学び育っていくだろう。自我は育つもの。そう信じている。子どもを信じる。親として出来ることは、その程度のことしか出来ない。
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