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1.22 過疎地によそ者は必要か?

1、22 過疎地によそ者は必要か?
  田舎の過疎地にIターンは必要か? という質問を受けた。過疎地に住んでいる多くのお年寄りの心情を察すると、よそ者は来なくてもよいということになると思う。
理由はいくつか考えられるが、
1、自分たちは一生懸命に働いて、子供に学校教育を受けさせ、都市に送り出した。子供や孫は、都市で生活をしている。程度の差はあるが、その姿に安堵し満足をしていると思う。自分たちの住んでいる田舎よりも、都会の生活のほうが快適だと思い信じている。子や孫に家に帰って来いとは、容易には言えない。わが子や孫に言えないことを、人様の子に向かってはいいにくいと思う。誰でも自分の価値観を否定したくないものである。

2、地域が過疎化しても、生活そのものが困窮するわけではない。多少不便さはあるが、昔のことを思えば耐えていける。戦前戦後の困難な時代を生き抜いて来た世代である。

3、例えよそ者が来たとしても、直接の利益はないに等しい。

4、よそ者が入ることにより、起こるだろう余計な出来事が煩わしいと思う。

5、よそ者に親切にしてくれる人もいれば、どう接していいのか解らない人もいる。

6、自分の住んでいる地域が過疎化しても、多少さみしいと言う気持ちはあるにせよ、解決に向かって行動を起すだけのものがない。

その他色々と考えられるが自分の結論としては、過疎地に住む高齢者の住民に何かを求めたり、責めたりする事は何の意味も価値もないと思う。
過疎地域に住む住民サイドから考えたら、よそ者は不用である。こんな思いが過半数を占めていると思う。

では外部からの視点、特に都会からの視点で考えたらどうなのか。
多くの都会に住む人たちにとっては、田舎が過疎化しようが、消滅しようが関係ないと思っている。要するに他人事であり、過疎になろうが過密になろうがどうでもいいことである。何事においてもそうだが、関心のない事は自分とは無関係である。

つまり過疎地に住む人も、都会に住む多くの人たちも、過疎化に対してはそれ程問題意識を持っていなと言うことだろうと思う。一部の問題意識を持っている人たちがそれぞれの思惑で活動をしている。その人たちは、過疎地によそ者が必要だと考えている。
自分の考えは、過疎地によそ者は必要かと言えば、答えは必要である。
自分が過疎地によそ者として住み始めて15年。招かれたわけではなく、勝手に住み始めたよそ者である。住む前と住み始めてからは自分の意識は変わってきた。回りの対応も変化してきている。
過疎地に若者の定住促進をしようということに、理解を示し始めた人もいる。
地域に住み始めた若者に、何かと協力と支援をしてくれる人もいる。その輪はすこしづづだが広がりを見せている。その反面批判的な人もいる。光が強くなれば影も強くなる。出る杭は打たれる。何時の時代でも何処でも同じことは起きる。批判は謙虚に受け止めたいと思っている。

自分は田舎で農業を始めるまでは、過疎化についての問題意識は無かった。後継者不足とか、少子高齢化とか、休耕田、耕作放棄とか言葉は知っていた。でも自分とは直接関係が無いように思っていた。自分が実際に休耕田を耕し、米をつくり野菜を作り始めて、初めて田舎で現実に起きている事実に直面し、この問題に対して危機感をもつようになった。
何が問題なのか。自分の問題意識は14歳のときから、一貫して自分は何のために生きているのか、どう生きればいいのかということだった。自分の内面だけを考え観続けて来た。このことは今も持ち続けている。50歳になってたまたま農業の真似事を始めたことがきっかけとなり、現実の問題にも意識がいくようになった。
自分の内面的な意識と、目の前にある現実の問題が、自分の中でかみあった。
自分の中で50歳になって初めて、意識と行動が一致した。

人は食べなければ生きていけない。勿論パンのみに生きるにあらず。人の生命を支えているのは食糧である。その食糧は農地から生産される。言い方を変えれば人の生命は農地に依存している。農地が放棄されるということは、生命を支える基盤が失われることといえる。日本国内の食糧自給率は40%程度。地球規模では10億人以上の人たちが食糧難に直面している。世界的にも農地は減少し、人口は増えていく。食糧の不足は明確な事実である。

山間地の自分たちが住んでいる地域のことだけを考えれば、過疎化になり、山が荒れ、
農地が荒れても生きてはいける。自分の家族を養うことは出来る。盲目的に我田引水を地でいけば何の問題もない。でも目を開いて世界を見れば問題は深刻である。世界に意識が捉われすぎると、現実の足下が見えなくなる。世界の状況を承知した上で、今自分が生きている現実の問題を直視することが大事になる。

自分は何のために生きているのか、どう生きればいいのか。この意識が一番の根底にあり、その先の生活は農業に基本をおいている。さらにその先に共育学舎がある。
自分の考え方、生き方は公私の区別はない。ここまでは、自分の生活で、ここから先は共育学舎の活動と言う境い目はない。自分にとっては全てが一体となっている。だから何をしていても同じことだという意識はある。毎日のように来客がある。用件は様々である。一日の中で人との会話の時間が一番長い。来客のない時間が自分のことの出来る時間である。公私の区別をしていたら、こんなに来客を迎えることは出来ない。何をしていても同じという考えがあるから、人に合わせて時間を取る事が出来る。
お金も自由に使うことが出来る。少しのお金だが。時間とお金を自由自在に使えると言えば格好いいが、自分の目の前にあることは、自分の意志で決定できる。

今の若い人たちは生きることに、どれだけの関心を持っているだろうか。就職に対する意識が、先行していないだろうか。
自分のところに多くの若者が滞在しては旅立っていく。生き方に少しでも関心のある若者は、1週間程度で顔の表情に変化が見られる。ところが金儲けのことが最優先している間は、表情に変化はあまり表れない。

過疎地に若者は必要であるが、お金儲けを最優先する考え方だと、過疎地は益々疲弊に拍車が掛かるように思う。今全国に地域活性化の先進地と言うところが色々とある。
一見華やかだが何時まで続くだろうかと思う。栄枯盛衰は世の常である。
生きることに真摯に向き合う若者が増えた時、地域はゆるやかな人間関係の中で、ゆるやかに生きていける現実が生まれると思う。自分の願いでもある。

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