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1.16 生きるとは業を肯定すること。

1.16 生きるとは業を肯定すること。
 最近自分の知りあいの中に、心を病んでいる人が何人かいる。以前精神科の先生に病気の判断基準を聞いたことがある。内科とか外科ならばデーターを元にして判断するから、解りやすい。精神病は医者の判断によることになると思う。自分の理解力と記憶力は確かではないことを前提として書くと、1、自分が困っていること。2、周りが困っていること。3、以前の自分と比べて違うこと。確かこのようなことだったと思う。このようなことは誰でも当てはまることで、程度の問題である。自分も病気になる可能性はあるし、既に見方を変えれば病気だと思う。かなりの重症患者なのかも。

 心を病むことは、本人が一番つらいことだが、周りも色々と心を痛めることになる。
医学的には病気と診断されない場合でも、心を痛めている人は多くいる。
人様のことでなく、自分のことを振り返ってみると、心の動きの癖がわかる。
今パソコンに向かっている自分の目の前には何の問題もない。でも気を緩めた瞬間に、頭の中に色々なことが浮かんでくる。過去のことに対する後悔、将来のことに対する不安。色々な思いがとりとめもなく交錯する。不安が不安を更に呼び起こす。怒りや憎しみが増大してくる。現実の目の前には、何の実体もない事柄に、心は動き感情が自分を責めたり、他人を批判したり心が乱れる。現実の問題もあるが、直視してみればそれほど大した問題ではない。ところが意識の中では大問題のようになっていく。その逆のこともある。

 子供からお年寄りまで、若ければ若さゆえの悩みや迷いがあり、年を取ればとったで迷いや悩みがある。それにお金のことや、人間関係やら様々なことが、重なるから容易なことではない。生老病死、四苦八苦。生きている限り悩みは尽きない。仏教ではその元を業と言うと思う。

生きるとは業の肯定だと思う。人間として持って生まれた業を、肯定しなければ苦しくなる。最近、自己肯定が出来ない、あるいは少ないことが、精神的な問題の原因の一つとして揚げられる事が多くある。その通りだと思う。では、何故自己肯定が出来ないのか。道徳とか宗教的な教えとか教育とか社会的な常識とかが、人間の業を肯定できないで、否定したがるからだと思う。業とは人間の個性であり味である。言い方を変えれば癖であり、性格とも言える。長所であり欠点とも表現できる。ようするに、業とはどんなに努力をしたところで、どうすることも出来ない存在である。変わることも変えることもできないもの。否定して否定しきれるものではない。肯定し受け入れることによってしか、自分の味方にならない。否定すれば否定するほど、厄介なものになる。自分のも人様のものも。業を否定することは、人間そのものの存在を否定することになる。出来ることならば笑って受け入れ、許したいものである。人間の面の皮一枚下は業の塊である。人間とは業に人間という袋をかぶしたものである。
美人も二枚目も中身は同じようなもの。地位があろうが名誉があろうが資産があろうが五十歩百歩。4歳のわが子でも既に業をむき出しにしている。すでに手強い存在である。子供を大事にすることは、子供の持っている業を受け入れるということ。我が子だけでなく、誰に対しても同じこと出来るようになれたらいいな、、、、。

1.14 東京には土がない。
 東京へ小旅行をして来た。都内の住宅地を散策してみた。東京には空はあるが、土がない。母なる土がない。これでは人は育つのが難しい。こんなことを改めて強く感じた。繁華街にいけば、人と物が溢れている。目にする生き物は人間だけ。人間と人工物だけの空間。改めて不自然だと感じた。このような環境の中で生活をしていたら、自然を意識することは困難なことだろうと思う。物づくりは今あるものが無くなるまで、止めてもいいだろう。経済力は低下するだろうが、人の心は豊かになるだろう。



1.10 感情の濃淡
 山間の田舎で生活して15年。地域の人たちの人間関係は、家族ではないが、家族同然の人間関係の中で成立している。生まれも育ちも、お互いが知りあっている。そこで生まれ育ったものでしか理解できない、微妙な規則と感覚と感情がある。他所の土地で生まれ育ったものには、どんなに努力しても理解はなかなか出来ない。三代住まなければ江戸っ子ではない。嫁に来て50年経った人ですら、未だに他所の人。家族の中の他人。どうすることもできない大きな壁がある。接し方を間違えるとトラブルになる。多くの場合には悪意があってのトラブルではなく、善意のすれ違いによるトラブルとなる。悪意があるならば対処の仕様もあるが、善意を元とした行き違いには理屈が通らない。
話し合い(議論)にはならない。良し悪しではなくダメなものはダメということ。よりよい結論を導き出そうという考えはない。悪意でないだけに反省も無く、同じことが繰り返される。人間関係で消耗し、田舎を離れるケースは善意のかけ違いが多いように思う。
 日本の社会では、自分の意見を主張することには寛容ではない。穏便にということは、長いものには巻かれろということ。立場の上のものにとっては都合のよいことである。立場のよわい者には泣き寝入りしろと言うこと。最近は色々な場面で、その傾向が強くなっているように思うのは自分だけだろうか。

日本は島国である。島国根性と言う言葉もある。田舎根性丸出しと言う言葉もある。島国も田舎も考え方の基本は、我田引水だと思う。井の中の蛙。日本の常識は世界の非常識。田舎の常識は、そこで生まれ育った人たちの常識。15年住んでみてそう思う。たかが15年だけだから勘違いかもしれない。でもそんなに見当はずれのことではないように思う。

我田引水の延長戦に「結い」が成立してきたと思う。自分のことは自分でする。他人の世話にはならない。何か世話になったら必ず、それ相当の労力か金品でお返しをする。お互いの共通認識であり、言い方を変えれば掟である。その掟に従っていれば問題はない。掟に従えないときには、「村八分」が待っている。我田引水と結いが、田舎=村社会を支えてきたと思う。その元に米作りがある。水田が無ければ我田引水と言う言葉は生まれていない。田植えや稲刈りの作業が結いの必要性を維持してきた。村社会の結束の元となってきた。村社会が機能し、そこでの生活や文化が守られてきた。しかし最近50年間で稲作農家が減少し、機械化が進んだことで生活も、文化も一気に消滅の道をたどっている。我田引水も結いも死語になりつつある。多くの田舎は限界集落といわれ、消滅した集落も少なくない。

 古いものが滅べば、そこに新しいもが芽生える可能性が生まれる。自分の出来ることは自分でする。自分で出来ないことは、出来る人に依頼する。お互い様と言う関係でいいと思う。
  何か出来ないことがあっても、当然だと思う。完璧な人はいないだろう。お互いに出来ることと、出来ないことは持ち合わせている。お互い様ということで済ませばどんなに楽になるだろうか。出来ないことが恥ずかしいこと、ダメなことではないと思う。
 出来ないからごめん、助けてください。出来るから助けます。それだけの関係でお互いが終わればいいと思う。お世話になったから、世話をしたから、という感情を何時までも引きずることなない。お互いに。田舎の人間関係は濃い。何時までも感情を引きずるから、どんどん加算されていく。お前のじいちゃんはという話にもなる。よそ者は感情の積み重ねが浅い。ベースが違うからお互いが理解をする為には、その辺のことを理解する必要がある。そのことを承知したうえで、感情の濃淡をうまく使えれば、お互いに楽になるだろう。返済を前提としたに「結い」でなく、お互いが返済を求めない「無償の連鎖」が出来ればいいなと思っている。  
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業を肯定するというお話しのところで、気持ちが軽くなりました。ありがとうございました。

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