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10.26 希望の光

  志をもって生きている人との会話は、年齢に関係なく楽しいし有意義な時間が流れる。参考になることも、反省材料もある。相手が若い人であれば応援したくなる。

  18歳の女子大生の訪問があり、話を聞く機会があった。先日ノーベル平和賞を受賞した17歳の少女のことを思い出しながら聞き入っていた。時代は確実に新しい価値観を求めている。21世紀の新しい芽吹きが始まっている。20世紀を生きてきたものとして、21世紀を生きるランナーに、内容のあるバトンタッチをしたいものだと思う。出来ることならば若い人たちの志が、実現できるようにサポートをしたいものである。

  人間の志はもろいものである。昔から百姓は1にたね、2に土、3につくりと心得自然と向き合ってきた。自分も未熟ながらそんな思いで農業をしている。
志を育てるのも同じことだと思っている。いい環境とよき人との出会い。その人にとって最良の出会いがありますようにと祈るばかりである。10代の時に芽生えた純粋な思いを貫き通したらすばらしいと思う。そんな人が増えてきたら21世紀には生きやすい社会が実現されるだろう。若者の志に希望の光がある。

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10.24 信じて生きる

   人生とは朝露の如し。人の心も秋の空。だからこそ一時を大事に生きたいと心構えだけはしているつもりだが、、、、。生きていれば色々な事態に遭遇する。喜怒哀楽が交差する。交通整理を間違えると衝突がおきる。自分が思ってもいない方向から、想像だにしていかったことが飛んでくることがある。老いても心の動揺はある。老いたからこその事情も生まれてくる。ということはこの世にいる限り心の動揺と付き合うことになる。

  心の動揺は自分自身の中から生まれてくることもある。外から飛び込んでくることもある。ある程度予測できることもあり、そうでないこともある。何れにせよ動揺するのは自分の心。外だけに原因を求めると、自分ではどうすることもできなくなる。自分の出来ることと、自分ではどうすることも出来ないことが交錯する。理性だけでは整理しきれない。感情だけでも、知識と経験を駆使しても治まらないことがある。時間という助け舟にすがっても容易なことではない。救いは、人間は同時に2つのことを考えることはできない。自分は一つのことに意識を集中して、動揺の治まることを待つようにすることが多い。時間がかかることもある。他人との関係では、自分はよくても他人に傷を負わせることも多々ある。他人に軸をおきすぎると、対人恐怖症になってしまう。生きる世界が狭くなってしまう。

  自分の原点を確認し、それに従う。不本意だが回りに迷惑をかけてしまうことも多くある。一つのことに偏りすぎると自分を見失うことになる。承知した上でこの程度でゴメンと生きているつもりだが。でも他人に対しては厳しく責めている。なぜ他人を責めたり批判をするのか。自己防衛と自己正当化が微妙に混ざり合って怒りに変化するのか。他人を責めなくなったら、いつか風の吹くままに、生きることができるようになるだろうか。そう信じて生きる。

10.22 月が沈む時

  女性閣僚が2人辞任した。国会の中でこの程度の問題で、紛糾するのが情けないと多くの国民は思っているだろう。女性閣僚として攻撃され、説明責任も果たさずうろたえていた女性議員が、今度は鬼の首をとったかのように攻撃する。これを茶番と言わずなんというのだろう。目くそ鼻くそを笑う。個人ならば勝手にどうぞ、ですむことだが国会と言う国家権力を行使する場で、公的な資金を潤沢に使ってこんなことでは、納税者としてはたまらない。国民にとって大事な政治が遠くにいってしまう。

  これは国会だけの問題ではない。日本全国どこでも起きていることでもある。
真剣に学び、議論し討論しお互いが理解を深めることをしながら、課題を解決していくことを拒否して来た、民族の歴史でもある。肝心なことを見失い、現在進行形で地方社会は崩壊しようとしている。自分は崩壊していく地方の、さらに地方の限界集落に住んでいる。今まさに集落が消滅しようとしている。何れ月は沈む。太陽が出る為には月が沈まなければならない。月が沈みかけているけれど、未だ太陽が出て来ない。一番の暗闇の中にいる。20世紀までの考え方価値観ではなく、21世紀にふさわしい生き方を創造出来るチャンスの中にいる。自分の出来ることは一滴の水にも満たないことは自覚している。でも消滅していく集落の中で畑を耕している。自分に出来ること、自分の務めだと自覚している。お金にはならない。ただ働き。経済活動を中心とした生き方は、20世紀で終わりだと思っている。高額なお金をかけ、高額な収入のある議員先生方は、茶番を演じている。もういいかげんに沈んでもらいたい。

21世紀を生きる若くて優秀な人材が求められている。若者の奮起を期待しながら、自分も命ある間は自分の務めを果たすよう奮起する。今こそ一人ひとりが目を覚まし、疑問を持ち奮起するときだと思う。答えの解っていることを理解し記憶する、そんな学校教育は20世紀の産物だと思う。誰かに答えを教えられるのではなく、自らの意志で学び、行動し、責任を負う。反省し過ちを改めていく勇気と行動力のある人材が求められている。誰かいないか。誰かの中に私も含まれている。

10.18  自我を育てる


  自分も60代後半を迎えた。おかげさまで元気に生きている。加齢と共にそれなりに心身ともに変化はしている。衰えなのか、成熟なのか。
 
ふりかえってみれば、我が人生は人さまからは、常に評価の外にあった。変わった人、変なやつ。この言葉で片付けられてきた。世間の常識からは、はみ出していた。いつの間にか評価されないことには慣れてしまった。その分自分なりの生き方が、出来てきたように思う。他人との比較ではなく、自分なりに考えてみてのことである。何時ごろからか他人と考え方生き方が違っても、何の問題もないことを自覚できるようになった。

  人間はいつごろから賃金労働をすることを、前提として生きるようになったのだろうか。自分は成長段階で働くことは、賃金労働と同意語という認識を持つようになっていた。生きるためにはお金を稼がなければならない。家業を継ぐか、どこかに就職をしなければならない。そのことを前提として学校に通っていた。では何の為に学ぶのか、働くのか、生きるのか疑問が自分の中に生まれてきた。誰かから教えられたわけではない。むしろそんなことは考えることではないと諭された。まわりから諭されて批判されても、どうすることも出来なかった。ただ自分の中の疑問に対する答えが欲しかった。どうすれば答えが得られるのか解らなかった。教えてくれる人も周りにはいなかった。自分で試行錯誤しながら悶々としながら生きるしかなかった。自分では必死だったし真剣だった。まわりからは変なやつ、仕事嫌いなやつ、根性のないやつとしか見られなかった。自分では今度こそと色々なことに挑戦してみた。今となればそんな経験が、自分の肥やしになっているように思う。そんな経験の積み重ねの、なれの果てが今の自分の生き様である。

  何のために生きるのか。未だに考え模索している。今は何のためにと言うこともなく、ただ生きることでいいと思っている。

  何時の時代でも悩みや苦しみは尽きない。自分にとって逆境と考える環境をバネに生きるか、自分を傷つけながら生きるのか。どちらを選択してもいいと思う。前を見たり横を見たり後ろを見たりしながら、うろうろしながらでも生きていればいいのだと思う。賃金労働をしなくても生きる環境があるならば、無理に賃金労働をしなくてもいいと思う。皆が同じように経済活動や賃金労働や社会的な活動、文化的なものに邁進しなくてもいいだろう。

義務教育という枠にはめられ、労働と納税の義務を背負わされて生きる。それに逆らうものは認めないし許さない。許さないだけでは飽き足らず、二重三重のプレシャーをかける。その恐怖の中で右往左往する。被害者側になりたくないから、加害者側になりたいと言う心理に追い込まれる。勝ち組負け組みなどという、おかしなことが生まれてくる。義務教育という環境の中で、皆等しく鍛えられてしまう。朱に交われば赤くなる。教育は大事なことである。教育により生き方が決まる。今の現実社会は正に教育の成果である。国家が国民を教育する。国家が選抜した教師が、国家が検定した教科書をもとに教育する。国が決めた教育基本法という枠からはみ出すことを、許さない仕組みが見事に完成している。教育の自由とはいいながら、巧妙に鋳型にはめられていく。生まれたときから未だ判断力のつかないうちの、成長段階で一度固まった鋳型を外すのは容易なことではない。強固な意志と長い時間がかかる。国家と何なのか。何のために存在するのか。国民の生命財産を守るといいながら、愚にもつかない政策を施行し散財を繰り返す。時には戦場にかりだす。国のために生命財産を投げ出すことを強制する。多くの国民市民は不安の中で生活している。教育制度の問題ではなく、教育内容を考え直す時期に来ていると思う。一人ひとりが自分に向き合い、自我を自覚したほうがいいと思う。その後に自分なりの生き方がついてくる。最初に集団があり、集団の規則で生きるのではなく、最初に自分があり、自分の考えで生き、結果として周りの人との関係が生まれてくる。集団とはその程度の関係性でいいのだと思う。要はバランスのとり方である。バランスは自分のことが自覚できなければ、自分で取ることは出来ない。自分で取る事が出来ないから、まわりに合わせる事しか出来ないことになる。自分に出来ないから、まわりも同じようにすることを求める。『皆が』ということで片付けてしまう。安易な生き方になる。日本人の多くの人の主語は『皆』であり、『私』と自覚している人がどれほどいるだろうか。自分勝手なひとは確実に増えてはいる。私を自覚することと、自分勝手とは違う。

我が子も現在5歳。余計な鋳型をはめずに、自由な生き方が選択できるようにと思い接している。答えは彼の中にある。自我が育つような環境を整えることが、親としての務めだと心構えはしている。もうすぐ学齢に達する。自分の心に従い子どもと接する。子どもは子どもなりに学び育っていくだろう。自我は育つもの。そう信じている。子どもを信じる。親として出来ることは、その程度のことしか出来ない。

10.15 お互い様

  新宮市と姉妹都市のアメリカのサンタクルーズ市の市長を含め6人の訪問があった。なんでも市長が有機農業に興味があるということで、その話題が中心であった。サンタクルーズ市で上手く機能しているファーマーズマーケットの話はとても参考になった。大学の有機農業の研究が大きな推進力となり、農業者が自主的に運営して、ビジネスとして成功しているという話だった。行政は場所を貸しているだけだそうだ。ビジネスとして成功していることで、更に多くの人たちの参加があり広がっていく。いかにもアメリカ的な話だと思った。きっかけは大地震で商店街が壊滅的な被害を受け、3年間立ち入り禁止になり、このままではゴーストタウンになるという危機感から始まったそうだ。大学、商店街、農業者、市民団体、行政と市民の連帯をまとめた優れたリーダーの存在があったのだと思う。

  共育学舎のことも説明したが、ルールもなく無償で滞在者を受け入れることには、どうしても理解が出来なかったようだ。最初にルールがあり、ルールを守ることの出来る人だけを、受け入れる前提のある彼らは頭をかしげていた。

ルールもなく無償で、どうして運営できるのか議論したかったが、言葉の壁もあり出来なかった。無償とはボランティアでもなければ、慈善でもない。宗教的な行為でもない。人道的ということでもない。理屈はいらない。ただ生きること。自分が生きていること。命有るものが一緒に生きること。命有るものは依存しなければ生きていけない。依存することは依存を受け入れること。お互い様と思えたらそれでいい。出来ることはするが、出来ないことはお願いする。お互いに限界がある。
   自分の限界を自覚して生きる。自分の出来ることを自覚して生きる。ただそれだけのこと。無償で出来ることは無償でする。有償でできることは有償でする。さじ加減は自分の決めること。そこに生きている醍醐味もあるし、苦悩もある。でもそんな思いこそ余計なこと。屁理屈。やはり理屈はいらない。ただ生きていればいい。

10/9,10/12

10、12 ノーベル平和賞
  天日干ししてある稲を乾燥は十分ではないが、台風が来るので脱穀した。
今年の収量は玄米換算で合計約900kg。十分満足できる収穫量である。籾の重さが嬉しく満足感がある。23年の大水害の後は何故か半作以下の不作が2年続いた。今年は水害前の収量に戻った。来年も作ろうと意欲がわいてくる。この感覚が支えになる。台風が去ったらもう一度天日干しをして保存する。滞在者が増えても、主食は問題ないだろう。台風が去ったら小麦を蒔く準備。

  17歳の少女がノーベル平和賞を受賞した。どんな背景があったのかは知らないが、本人にとっては大変な看板を背負ったことになる。余計なお世話だが、看板に左右されないで、自身の良心に従って生きることが大事な事だと思う。
10代の志を生涯貫き通すことは、至難のことだと思う。彼女には良き師がついているのだろうか。良き道志がいるのだろうか。まわりの大人は彼女に勝手な期待もするだろうし、最大限に利用しようと画策もするだろう。操り人形ではなく、心ある女性としての人生をと願わずにはいられない。

  最近自分のまわりに移住してきた、若い女性が何人かいる。滞在する女性もいる。彼女たちは果たしてどんな志を持って、生活しているのだろうか。そんな視点で見るのは酷だろうか、、、、、。 何れ母親に成る可能性がある女性たちである。しっかりと自分を成長させてもらいたいと願っている。自分は男性には寛大で優しいが、女性にはとても厳しく接すると言われる。他人から見ればそう見えるだろうと思う。若い女性をみていると母親になる心構えと準備を、どれほど自覚しているのだろうかと心配になる。子どもは母親の胎内で10月を過ごし、生まれてきたら母親の影響を一番受けながら成長する。女性だけに責任を押し付ける気はない。父親になる男性の責任も重大である。優しいだけの男と、強いだけの女性が増えているような気がする。男の本質は優しさであり、女の本質は強さだと思う。性を自覚して努力しなければ、強さと優しさのバランスはとれない。成長の段階で男は強く、女は優しくと教育を受けなければ、性の特質を自覚できないだろう。男女平等を男女同等と勘違いしているように思えてならない。優しさの裏付けのある強さでなければ、真の強さとは言えない。強さの裏づけのある優しさでなければ優しいとはいえない。

  何時の時代でも親子の葛藤はある。人間同士の葛藤は、程度問題は別にして避けることはできない。最近親子の関係が何かおかしな方向に進んでいるように思う。
毒母とか毒親などという活字を目にすることがある。女性の価値観が一人歩きして結果だと思う。女性を労働者として価値付けようとしている、考え方が間違っているように思う。何でもお金に換算してしまう価値観がおかしい。女性の尊厳を賃金労働者の価値基準で計ってはいけない。人間は賃金労働者ではない。まして母親は。父親も同じこと。今回60代と10代の女性がノーベル平和賞を受賞したことが、女性の尊厳に対する警鐘になればと願わずにはいられない。
  


10,9 安い人生
  残っていた10aの稲刈りが終わった。天日干しをするので脱穀は天気次第。
台風が気になるが、どうすることもできない。自分の思い通りにいかないのが農業の面白さという宿命。人生と同じこと。農業を通して人生を学んでいる。ありがたいことである。
  今年を最後に米作りをやめる農家が何軒あるのだろうか。来年から新しく米作りをする人が何人いるだろうか。やめる農家は万単位だと思うが、新規就農者は1割もいるだろうか。

  朝起きたら食べ物がある。夜が来たら寝る場所がある。この二つがあれば安心して生きていけるはずだが、そうはいかないのが人間と言う生きもの。
面白くもあり悲しくもある。悲喜こもごものドラマが展開されている。質素に生きることが出来れば、安心感は増幅される。名誉だとか社会的な評価だとか、物質的な豊かさを求めるから、自ら困難な問題を抱え込むことになる。自業自得ということか。

  高齢の為耕作出来なくなった農地を、無償で借りて食べ物を栽培している。公共物でありながら、活用できなくなった小学校の校舎を無償で借りて活動の拠点としている。人様の所有物を無償で借りて、食べ物と寝る場所を確保している。
だからできる事がある。出来ることを出来る範囲でしてきたと思っている。ささやかな自己満足でもある。何時まで出来るだろうか。

  自分の中にはこれでいい、この程度のことしか出来ないという思いがある。
朝起きたら食べるものがあり、夜になったら寝る場所がある。この程度のことに満足できる自分は安い人生を過ごしていると思う。

2014年9月~10月の日記

 10月4日 おかしな話
 稲を収穫した田んぼに、今度は小麦を蒔く。所謂二毛作である。同じ圃場で米と麦が収穫できる。無農薬無科学肥料で、素人が栽培しても10a当り年間で約600kg程度の穀物が収穫できる。上手に作れれば1トン近くの穀物が収穫できる。米は自給率100%超えているのに、小麦の自給率は15%程度。おかしな事態が何十年と続いている。お金を儲ける為には色々なからくりが有る。知らず知らずにそのからくりに組み込まれていく。お金を出して、健康に悪いものを口に入れる。病気になって医療費を払うことになる。風が吹けば桶屋が儲かる。誰かのお金儲けのために、自分の人生を捧げたいとは思わない。経済的には貧しくてもそれは受け入れていく。お金のために心身の健康を、犠牲にはしたくない。自分の人生の主人公は自分。経済を中心とした考え方からすれば、おかしな話である。



10月3日 神から紙へ
  おかげさまで、第一弾の稲の収穫が終わった。今年はあえて田植えを遅くし、品種も晩稲に代えた。8月に台風で田んぼは水に浸かったが、未だ出穂をしていなかったので影響はなかった。もしも例年通りだったら大打撃を受けていたと思う。23年の大水害以降不作が続いたが、今年は水害前の収穫量に近づいたと思う。
玄米換算で600kgぐらいかな。後約10a分は15日前後の稲刈りになる。

近所のおじさんは、来年米作りは、しないと話していた。自分も止めたら西敷屋の農地は殆ど荒地になってしまう。どうやら地域で唯一の農業者になってしまうようだ。こうして地域は消滅していくことになる。全国でどれだけの地域が消滅していくのだろうか。地域は消滅してもいいと思うが、農地が消滅していくことに、どれだけの危機感も持っている人がいるだろうか。人間の生命は農地に依存していると言う事実を、どれだけの人が自覚しているのだろうか。地域づくりに取り組んでいる人たちは、沢山いるけれど意識は何処にあるのだろうか。

地方創生担当大臣が生まれたが、経済を中心に考えたら地方『葬制』担当大臣になってしまうだろう。既に水面下では地方創生という餌に群がる人たちが、お金を求めて動き出しているだろう。貪欲な人たちの餌が過疎化から、創生に代わっただけのことにならないように、願うがどうだろうか。

仕組みや制度をどんなに変えても、人間の考え方価値観が変わらなければ同じこと。人間としての心のあり方を創生しなければ、お金に振り回されるだけのこと。
   地方の疲弊は加速するだろう。悩み苦しみ傷つく人たちは増えることになるだろう。

    銀行券という何の価値もない紙幣に翻弄されるのは、いい加減にやめた方がいいと思う。日本の歴史の中心は、神から途中お上に変わり、現在は紙に代わっただけのこと。もう悪夢から覚めてもいい頃だろう。自分は畑を耕し生きていく。
     



9月28日 無償の連鎖
  5日前に腰痛が再発して、丸3日間は寝たきりの状態だった。今は少し歩くことも出来るようになった。外では昨日から稲刈りが始まった。滞在者4人と助っ人数人で刈り取ってくれた。思えば昨年も腰痛で稲刈りが出来なかった。腰痛の原因は自分では解っている。自分の弱さであり甘さである。

 よく無償の連鎖について質問されることがある。例えば今回の稲刈りには、延べ13人が関わった。13人に日当計算をして、賃金を払うと約10万円が発生する。
世間の常識を基準にすれば、当然のこととして10万円を支払うことになる。とすると収穫した米を換金したくなる。つまりお金の計算の連鎖が始まる。お金を支払う為に、お金を何処からか手に入れなければならない。お金を回すための歯車に組み込まれることになる。現在の世の中の仕組みはお金を中心として、その周りを人間の物質的な欲望が激しく動き回っている。人間が欲望に振り回されながら、のた打ち回っている。太陽の周りを地球が回っているように、お金のまわりを人間がくるくる回っている。人類の歴史でもある。

 自分はお金を中心としたいき方ではなく、人間の志を中心に回りたいと考え、実践している。今回の稲刈りを一生懸命にしてくれた人たちに対して、お金という対価は支払わない。だから収穫したお米を換金する必要は生じない。共育学舎に滞在する人には、無償で食事を提供できることになる。これから1年間多くの人たちの命を支えることになる。最初の第一歩で方向性は決る。お金に向かって第一歩を踏み出せばお金につかまる。志に向かって第一歩を踏み出せば無償の連鎖がスタートする。少なくともお金がなければ生きてはいけない、という常識からは開放される方向に進む事ができる。

 明治以降の日本の教育は、生きるためにはお金が必要だから、賃金労働をすることが大事なことだと教えてきた。言い換えれば賃金労働者を育てる為の教育ともいえる。若者が就活に最大の時間とエネルギーを費やしていることや、賃金労働が合わなくて引きこもっている若者も多くいることも、教育のなせる業である。
富国強兵が経済大国と看板を変えたが、中身は同じこと。

 お金は大事なものである。いくらお金が有っても生きることは出来ない。お金がなくても生きることは出来る。お金とはその程度に大事なものだと思う。

最初に自分がただ働きをすれば、無償の連鎖の第一歩である。その気になれば出来ることである。何故ならばお金がなくても出来ることだから。
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