FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

4.14 誕生日


 昨日は我が人生で何回目かの誕生日。4歳の息子がケーキを張り切って焼いてくれた。歌も歌ってくれた。嬉しかった。我が人生最良の誕生日であった。

 今日は1年に1回の検診日。何処も異常なくこれから先1年間生命を頂いた感じになり心から感謝します。これからは一年刻みで生きるような年齢になったということ。

共育学舎の滞在者は今日現在男性が4人。女性が1人。

自分は何歳になっても、何をしているのか。何をしようとしているのか。自問自答しながら生きている。悩み迷いながら生きている。心は乱れる。
人からも何をしようとしているのかと、質問されることがある。答えはその時により違うことを話している様な気がする。嘘ではなくその時に心に浮かんだことを、なるべく正直に答えている。自分の気持ちは、日々刻々と変化している。変化した心を積み重ねている。ただ心の底にあるものは、人は何のために生きるのか、という疑問。これは14歳の時から何を考え、何をしていても、何処にいても変わらない。これから先も変わらないだろうと思う。もしも来世があるならば、そこでも同じ思いを持ちつづけているだろう。

 現代社会はネットと無関係ではいられない。ネットも使い方で毒にも薬にもなる。
現在クラウドファンディングが進行中。新しい縁が生まれている。まだ面識のない人とのつながりが生まれている。思えば一見不思議な世界であるが、情報が先にあって現実が後からついてくる、当たり前のことである。情報量が多くなるのでその処理能力が付いていかないと、情報に振り回されることになる。

 外から入ってくるものには、細心の注意が必要になる。食べ物も情報も。
現代人の多くは過食と情報過多で心と体のバランスを崩している。
体調を整えるには腸をきれいにしたらいい。心を整えるには、頭を整理したらいい。腸は第二の頭脳ともいう。巷ではこれがいい、あれがいいと情報が錯綜している。

自分で考え学び実践する。この道中の悩みや迷い葛藤を受け止める。その中で一筋の光を見出すが、光は消えることもある。変化を恐れると硬直し、隙間がなくなってしまう。隙間がないから余裕がなくなる。生きることは変化を受け入れることでもある。良いときも悪いときも。所詮一時のことである。

スポンサーサイト

4.3 常識という怪物

4月1日の決意。衆議院に立候補し総理大臣の座を目指し、消費税を80%にします。

 人間には常識という怪物がつきまとう。多くの人間はまだ見たことのない怪物に恐れ抵抗が出来ないでいる。無条件で従うことで、何だかわからない安心を得ようとする。皆が従っているのだから、自分もあなたも従うのが当然でしょ。若い世代は情報網が発達した分だけ、常識は一般化され狭く浅くなっている。その反動で人と同じ事ではダメだ、だから殊更なことを考え衝動的な行動に出てしまうことがある。若者だけでなく世の中全体が、何か人とは変わったことをしなければと、追い立てられている。その結果として常識以前の当然なことが、失われていくことになる。得体の知れない情報が常識化して、時として首を絞めに来る。多くの場合に他人が絞めるのではなく、自分で自分の首を絞めてしまう。自縄自縛。言葉は知ってはいるが、意味を理解し、自分を解放すのは容易なことではない。この春も多くの若者が新天地に向かって飛びだっていたことだろう。初心を常識という真綿で包み込むことなく、何時までも初心を大事にしたらいいと思っている。常識以前に人間としての普遍的なことがある。当たり前のことがある。常識と混同しないで、学業や仕事を通して、自分を成長させてほしいと思う。

 最近、自己肯定と言う言葉を耳にすることがある。反対は自己否定。先日ある若者とどうしたら自己肯定が出来るのかと話になった。自己肯定も自己否定も自分で自分のことを認知することだと思う。ならば話は簡単明瞭である。自分を自分で肯定したら自己肯定、否定したら自己否定。自分の考え次第でどうにでもなる。
では自分を自分で何を根拠に認知するのか。自分で自分を観る目を自分で磨いていけば、磨いた分だけ認知が鮮明になり的確になってくる。常識と言う思い込みの雲の合い間から、本来の自分が姿を現すだろう。自分の性格と能力が自覚できるようになるだろう。他人と比較して優劣を決めるものではない。決められるものでもない。誰が決められるのか。意味も価値もないことに縛られることない。
性格は変わらないし変えられない。能力は鍛錬すれば向上する。どうにもならないことは素直に肯定したらいい。どうにか成ることは、どうにかするように努力したらいい。性格と能力を混同しないことである。自分を正確に認知し肯定したらいい。
認知が不正確なまま自己肯定したり自己否定することを、認知障害というのだろう。更に進めば認知症になる。

多くの若者が自己肯定とか自己否定とか優越感とか劣等感とか自分をどう認知するのかで迷い苦しんでいる。年を取れば認知症で多くの人たちを巻き込んで苦しめている。現在の日本は40数年前の1億総白痴から1億総認知障害になっていると言ったら言い過ぎだろうか。外から一方的に刷り込まれた常識から、目を覚ましてもいいだろう。川の流れの中にいては、どこから流れてその先に何があるのか解らない。土手に上がってみたときに流れを理解できる。理解したうえで流れに飛び込みたかったら、飛び込みたいところに飛び込んだらいいと思う。いやなら止めればいい。それだけのことだろう。
一回流れから離れて、高みの見物をするのも悪くないだろう。

 自己肯定も自己否定も自分次第である。生まれてから自我が目覚めるまでの成長過程では、環境から受ける影響が大きいことは確かである。親を含めた大人の責任は大きい。自我が目覚めた後は自己責任である。大人になったら環境を一方的に責めるのは責任転嫁だろう。かといって自己責任だと自分だけを責め続けるのも違うだろう。
環境の影響も認めたうえで、自分で自分をどうするかということ。大上段に構えるのではなく、気軽に休んだり考えたり遊んだり出来る時間と空間が必要だろう。
   得体の知れない原動力の、歯車になるだけが人生ではない。
   自分の人生は原動力にはなれないし、歯車にもなりたくないと考えている。自走まではいかないが、せめて自立して、自歩ぐらいはしたいと思っている。自己否定をして自分を責めて傷つけても、自己防衛にはなるが何の益もない。

    自分が作り始めたスラムは、強制力のない緩やかな空間。台所とトイレはあるが、玄関も座敷もない家のようなもの。家という常識では不完全だから、格式も権威もない。何の資格もとれないし、キャリヤにもならない。でも食べて寝ることは出来る。考えたり休んだり遊んだりすることは出来る。生きてはいける。
玄関も座敷もないから儀礼的な挨拶はいらない。入りたいときに入って、出たいときに出て行く。秩序はあるが規則はない。無法ではあるが無礼ではない。常識では計り知れない、しょうもないオッサンの自己満足であり道楽かな、、、。
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。