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田植えは5月18日の予定

3.31
 今年の田植えは例年より2週間遅くした。5月18日を予定している。籾はすでに塩水選をして水に浸けてある。今年はどんな夏になるだろうか。台風はどうか。獣害は、と、色々と気になることが多くなる。田植えが終われば小麦の収穫。今年は小麦の後作にも稲つくりをする。耕作放棄された農地のことを考えると、一年一作でなるべく広い農地を活用したほうがよい。しかし獣害がこれだけ増えてくると狭い面積の方がいい。今年は米と小麦の二毛作に挑戦する。
稲刈りをしてすぐ小麦の種まき。麦刈りをしてすぐ田植え。60年前までは当たり前のことだったが、いつの間にか小麦の栽培が消えてしまった。同時に食糧自給率は下降した。
小麦を自給できれば自給率は一気に上がる。年2回主食が収穫できるので安心感が違ってくる。そんなことは誰でもわかること。解る事とできることは違う。出来ることを積み重ねて生きる。是でいいのだと思う。

 若いころ国内と外国のスラムと言う場所に潜り込んだことがある。その中ではニューヨークが一番怖かった。インドでは妙な安心感があった。カーストのせいだろうか。子供たちが日本人観光客からもらってきた、10円玉や100円玉を両替してやっていた。日本円10円で安い定食が食べられた。お礼に子供たちからチャーイを奢ってもらったりしていた。チャーイは1円だった。嬉しそうに食べている子供たちの笑顔が忘れられない。今自分が畑に立っているのはそのときの経験が大きい。スラムに思いがあるのもそんな経験から来ている。犯罪の匂いのない明るく楽しい、スラムになったらいいと思う。

命がある間は誰でも生きることの出来る社会が望ましい。自殺が年間3万人。異常な事態である。せっかく命がありながら、もったいないと思う。生きることは辛くもある。不安であり不満もある。不信もある。悲しくなる時もある。そんなやり切れない気持ちを受け入れることのできる隙間が、人にも社会にも薄く狭くなってしまった。休んだり立ち止まったりすることが、許されないような気持ちにさせられてしまった。甘えたり依存することがいつの間にか、人間としてダメな評価をされるようになってしまった。人を許せないことが自分の首を絞めることになってしまった。人と人が助け合うことが希薄になってしまった。誰かを責めたり原因を追究してもどうにもならない。弱く愚かな自分を自分で許し、抱きしめることぐらいしか出来ない。何時でも何処でも自分を護って生きる。お金がなくても自分を大事にすることはできる。自分の命は一つしかない。理屈を抜きに一つしかないものは大事にしたほうがいい。

それにしても現在の日本では甘えたい人は一杯いるのに、受け止めてくれる人が不足している。甘えを受け止めてもらったことのない人は、甘えを受け止められない。経験がない事はできないことが多い。初めは甘えて依存する。成長できたら甘えと依存を受け止める。こんな循環でいいと思う。自分も出来る限りは受け止めたいと思い、少しだけ実践しているつもりだが、、、、、。
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自分を信じて生きる

3,26
  先日、災害についての調査研究をしている、研究者からインタビューを受けた。大水害から2年半。自分としては冷静に分析しながら、話をしているつもりだが、亡くなった知人の話になると、感情がこみ上げてしまう。生きている者としての務めを果たさなければならないと改めて自覚する。

先日、スラム予定地で焚き火を囲みながら夜を過ごした。改めていいものだと思った。自分がこれから実践しようとしていることが、間違いではないと実感できた。
火と刃ものを使い食事と住まいを作る。人間の人間たる所以である。
自分は40代の約10年間は、電気、ガス、水道のない環境の中で生活をした経験がある。新聞も本も読まず社会との縁を断っていた。自分が考えていることが他人からの受け入れなのか、自分の中から生まれたものなのかを確認したかった。ただそれだけの為に。照明がないから陽のあるうちに、用事はすべてすませる。暗くなれば何もすることがない。色々な考えが浮かんでは消え、消えては浮かんでくる。時として寂しさが襲ってくる。無性に人恋しくなる。何か本を読みたくなる。とにかく寂しさを紛らしたくなる。予めそのようなものは全て無くしてある。ただ歯を食いしばり、膝を丸めて耐えるだけ。そんな状態が数年は続いた。気が狂ってほしいと願った。気が狂えばこの苦しみから解放されると思った。いつか寂しさは消えるものだと自覚できた。それからは一人での生活を享受できるようになった。生きる自信のようなものが、少しだけ芽生えたような気がした。気がつけば50歳になっていた。スラムでは共育学舎とは一味違った世界が、展開されていくだろう。新しい出会いがあるだろう。
クラウドファンディングが進行中、金額はともかくいままで縁のなかった人たちに情報が伝わるだろう。ネット社会のひとつの活用方法だと思う。

細々ではあるがこんな活動をしていると、様々な課題と問題が目の前に表れては通り過ぎていく。連日年齢も経歴も違う人と話をする機会があり、生活を共にしている。自分は自分であるが受け止め方は人それぞれ。お互いに心が通じることもあるが、思いもよらぬ誤解が生じることもある。細心の注意をはらい、自分の心のバランスに気をつけていないと、人に会えなくなる。対人恐怖症とか神経症になってしまう。
生活を共にすれば誤解が生じても解ける機会がある。生活を通してお互い理解が深まる。たまに来て話だけして帰る人は一度誤解が生じると、誤解が誤解を生んでしまう。どうにもならない事態になる。そんな悲しいケースもたまにある。

「活人剣殺人剣」と言う言葉がある。出来ることならば「活人剣」でありたいと思っているが逆になってしまう事もある。自分の気がつかないところで人を傷つけていることも沢山ある。口に入れるものも、口から出すものも気をつけてはいるが、まだまだは不十分である。光が強くなれば影が濃くなる。影を恐れては不信と不安に埋没してしまう。自分を信じて生きる。スラムは昼行灯がいいな、、、、。
ゆるやかに生活できる場になればいいな、そんなことを思っている。

荒地を開墾し、種を蒔く

3,20
 時の流れが加速している。あっという間に1ヶ月が過ぎ去っていく。大したこともなく、無事に過ごしていることだといい方に解釈している。最近は一人でユンボとダンプを使い、スラム予定地の造成をしている時間が比較的多い。事の始めは自分ひとりでする。自分が一人でも出来る範囲のことを積み重ねていく。一人だから出来る範囲は限られている。歩みは遅いけれども自分の中に手ごたえはある。核ができれば周りに何かが繋がってくる。形が目に見えるようになれば、その時に自分は一歩引き下がればいい。先ずは荒地を開墾する。開墾したら種を蒔く。種を蒔けば芽が出る。芽が出れば花が咲き実が成る。実は誰かが収穫すればいい。自分の役割は実を収穫することではない。荒地を開墾し、種をまくことである。

人は考えるから生きることが出来、学ぶことにより成長できる。成長するから自分の性格と能力を生かすことが出来る。何のために自分の性格と能力を活かすのか。
考え学び成長しなければ答えは解らない。考え学び成長できる環境と時間が必要である。そんな場を準備している。今のところスラムと自分では呼んでいる。

自分は今まで共育学舎という場所を提供してきた。食事と布団を無償で提供してきた。今も継続している。色々な人との縁があった。縁により成ったこともあり、壊れたこともある。共育学舎を縁として知り合いになった色々な若者が、具体的な活動を展開し始めている。どんな実が成るかこれから見守っていきたいと思っている。



新しくスラムが出来る過程でどんな縁が生まれてくるのかは解らない。どんな展開になるのかは解らない。ただ自分が考え学び成長できるように、この一点だけは見失うことのないように最善を尽くす。

最近滞在した若者が、スラムを「人生の止まり木、、、」としてクラウドファンディングを提案し、準備してくれた。近いうちにスタート予定である。自分が動けば何かが動く。共育学舎は共育学舎として継続し、スラムはスラムとして新たな場となる。

思えば50歳前と50歳を過ぎてからの生き方はまるで違う。自分には変わりないが、行動が違う。50歳前は鍬を空に向けて振っていた。諦めずに空振りをしてきたなれの果てに土を耕している。これからも土を耕して生きていくだろう。

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