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1.22 過疎地によそ者は必要か?

1、22 過疎地によそ者は必要か?
  田舎の過疎地にIターンは必要か? という質問を受けた。過疎地に住んでいる多くのお年寄りの心情を察すると、よそ者は来なくてもよいということになると思う。
理由はいくつか考えられるが、
1、自分たちは一生懸命に働いて、子供に学校教育を受けさせ、都市に送り出した。子供や孫は、都市で生活をしている。程度の差はあるが、その姿に安堵し満足をしていると思う。自分たちの住んでいる田舎よりも、都会の生活のほうが快適だと思い信じている。子や孫に家に帰って来いとは、容易には言えない。わが子や孫に言えないことを、人様の子に向かってはいいにくいと思う。誰でも自分の価値観を否定したくないものである。

2、地域が過疎化しても、生活そのものが困窮するわけではない。多少不便さはあるが、昔のことを思えば耐えていける。戦前戦後の困難な時代を生き抜いて来た世代である。

3、例えよそ者が来たとしても、直接の利益はないに等しい。

4、よそ者が入ることにより、起こるだろう余計な出来事が煩わしいと思う。

5、よそ者に親切にしてくれる人もいれば、どう接していいのか解らない人もいる。

6、自分の住んでいる地域が過疎化しても、多少さみしいと言う気持ちはあるにせよ、解決に向かって行動を起すだけのものがない。

その他色々と考えられるが自分の結論としては、過疎地に住む高齢者の住民に何かを求めたり、責めたりする事は何の意味も価値もないと思う。
過疎地域に住む住民サイドから考えたら、よそ者は不用である。こんな思いが過半数を占めていると思う。

では外部からの視点、特に都会からの視点で考えたらどうなのか。
多くの都会に住む人たちにとっては、田舎が過疎化しようが、消滅しようが関係ないと思っている。要するに他人事であり、過疎になろうが過密になろうがどうでもいいことである。何事においてもそうだが、関心のない事は自分とは無関係である。

つまり過疎地に住む人も、都会に住む多くの人たちも、過疎化に対してはそれ程問題意識を持っていなと言うことだろうと思う。一部の問題意識を持っている人たちがそれぞれの思惑で活動をしている。その人たちは、過疎地によそ者が必要だと考えている。
自分の考えは、過疎地によそ者は必要かと言えば、答えは必要である。
自分が過疎地によそ者として住み始めて15年。招かれたわけではなく、勝手に住み始めたよそ者である。住む前と住み始めてからは自分の意識は変わってきた。回りの対応も変化してきている。
過疎地に若者の定住促進をしようということに、理解を示し始めた人もいる。
地域に住み始めた若者に、何かと協力と支援をしてくれる人もいる。その輪はすこしづづだが広がりを見せている。その反面批判的な人もいる。光が強くなれば影も強くなる。出る杭は打たれる。何時の時代でも何処でも同じことは起きる。批判は謙虚に受け止めたいと思っている。

自分は田舎で農業を始めるまでは、過疎化についての問題意識は無かった。後継者不足とか、少子高齢化とか、休耕田、耕作放棄とか言葉は知っていた。でも自分とは直接関係が無いように思っていた。自分が実際に休耕田を耕し、米をつくり野菜を作り始めて、初めて田舎で現実に起きている事実に直面し、この問題に対して危機感をもつようになった。
何が問題なのか。自分の問題意識は14歳のときから、一貫して自分は何のために生きているのか、どう生きればいいのかということだった。自分の内面だけを考え観続けて来た。このことは今も持ち続けている。50歳になってたまたま農業の真似事を始めたことがきっかけとなり、現実の問題にも意識がいくようになった。
自分の内面的な意識と、目の前にある現実の問題が、自分の中でかみあった。
自分の中で50歳になって初めて、意識と行動が一致した。

人は食べなければ生きていけない。勿論パンのみに生きるにあらず。人の生命を支えているのは食糧である。その食糧は農地から生産される。言い方を変えれば人の生命は農地に依存している。農地が放棄されるということは、生命を支える基盤が失われることといえる。日本国内の食糧自給率は40%程度。地球規模では10億人以上の人たちが食糧難に直面している。世界的にも農地は減少し、人口は増えていく。食糧の不足は明確な事実である。

山間地の自分たちが住んでいる地域のことだけを考えれば、過疎化になり、山が荒れ、
農地が荒れても生きてはいける。自分の家族を養うことは出来る。盲目的に我田引水を地でいけば何の問題もない。でも目を開いて世界を見れば問題は深刻である。世界に意識が捉われすぎると、現実の足下が見えなくなる。世界の状況を承知した上で、今自分が生きている現実の問題を直視することが大事になる。

自分は何のために生きているのか、どう生きればいいのか。この意識が一番の根底にあり、その先の生活は農業に基本をおいている。さらにその先に共育学舎がある。
自分の考え方、生き方は公私の区別はない。ここまでは、自分の生活で、ここから先は共育学舎の活動と言う境い目はない。自分にとっては全てが一体となっている。だから何をしていても同じことだという意識はある。毎日のように来客がある。用件は様々である。一日の中で人との会話の時間が一番長い。来客のない時間が自分のことの出来る時間である。公私の区別をしていたら、こんなに来客を迎えることは出来ない。何をしていても同じという考えがあるから、人に合わせて時間を取る事が出来る。
お金も自由に使うことが出来る。少しのお金だが。時間とお金を自由自在に使えると言えば格好いいが、自分の目の前にあることは、自分の意志で決定できる。

今の若い人たちは生きることに、どれだけの関心を持っているだろうか。就職に対する意識が、先行していないだろうか。
自分のところに多くの若者が滞在しては旅立っていく。生き方に少しでも関心のある若者は、1週間程度で顔の表情に変化が見られる。ところが金儲けのことが最優先している間は、表情に変化はあまり表れない。

過疎地に若者は必要であるが、お金儲けを最優先する考え方だと、過疎地は益々疲弊に拍車が掛かるように思う。今全国に地域活性化の先進地と言うところが色々とある。
一見華やかだが何時まで続くだろうかと思う。栄枯盛衰は世の常である。
生きることに真摯に向き合う若者が増えた時、地域はゆるやかな人間関係の中で、ゆるやかに生きていける現実が生まれると思う。自分の願いでもある。

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1.16 生きるとは業を肯定すること。

1.16 生きるとは業を肯定すること。
 最近自分の知りあいの中に、心を病んでいる人が何人かいる。以前精神科の先生に病気の判断基準を聞いたことがある。内科とか外科ならばデーターを元にして判断するから、解りやすい。精神病は医者の判断によることになると思う。自分の理解力と記憶力は確かではないことを前提として書くと、1、自分が困っていること。2、周りが困っていること。3、以前の自分と比べて違うこと。確かこのようなことだったと思う。このようなことは誰でも当てはまることで、程度の問題である。自分も病気になる可能性はあるし、既に見方を変えれば病気だと思う。かなりの重症患者なのかも。

 心を病むことは、本人が一番つらいことだが、周りも色々と心を痛めることになる。
医学的には病気と診断されない場合でも、心を痛めている人は多くいる。
人様のことでなく、自分のことを振り返ってみると、心の動きの癖がわかる。
今パソコンに向かっている自分の目の前には何の問題もない。でも気を緩めた瞬間に、頭の中に色々なことが浮かんでくる。過去のことに対する後悔、将来のことに対する不安。色々な思いがとりとめもなく交錯する。不安が不安を更に呼び起こす。怒りや憎しみが増大してくる。現実の目の前には、何の実体もない事柄に、心は動き感情が自分を責めたり、他人を批判したり心が乱れる。現実の問題もあるが、直視してみればそれほど大した問題ではない。ところが意識の中では大問題のようになっていく。その逆のこともある。

 子供からお年寄りまで、若ければ若さゆえの悩みや迷いがあり、年を取ればとったで迷いや悩みがある。それにお金のことや、人間関係やら様々なことが、重なるから容易なことではない。生老病死、四苦八苦。生きている限り悩みは尽きない。仏教ではその元を業と言うと思う。

生きるとは業の肯定だと思う。人間として持って生まれた業を、肯定しなければ苦しくなる。最近、自己肯定が出来ない、あるいは少ないことが、精神的な問題の原因の一つとして揚げられる事が多くある。その通りだと思う。では、何故自己肯定が出来ないのか。道徳とか宗教的な教えとか教育とか社会的な常識とかが、人間の業を肯定できないで、否定したがるからだと思う。業とは人間の個性であり味である。言い方を変えれば癖であり、性格とも言える。長所であり欠点とも表現できる。ようするに、業とはどんなに努力をしたところで、どうすることも出来ない存在である。変わることも変えることもできないもの。否定して否定しきれるものではない。肯定し受け入れることによってしか、自分の味方にならない。否定すれば否定するほど、厄介なものになる。自分のも人様のものも。業を否定することは、人間そのものの存在を否定することになる。出来ることならば笑って受け入れ、許したいものである。人間の面の皮一枚下は業の塊である。人間とは業に人間という袋をかぶしたものである。
美人も二枚目も中身は同じようなもの。地位があろうが名誉があろうが資産があろうが五十歩百歩。4歳のわが子でも既に業をむき出しにしている。すでに手強い存在である。子供を大事にすることは、子供の持っている業を受け入れるということ。我が子だけでなく、誰に対しても同じこと出来るようになれたらいいな、、、、。

1.14 東京には土がない。
 東京へ小旅行をして来た。都内の住宅地を散策してみた。東京には空はあるが、土がない。母なる土がない。これでは人は育つのが難しい。こんなことを改めて強く感じた。繁華街にいけば、人と物が溢れている。目にする生き物は人間だけ。人間と人工物だけの空間。改めて不自然だと感じた。このような環境の中で生活をしていたら、自然を意識することは困難なことだろうと思う。物づくりは今あるものが無くなるまで、止めてもいいだろう。経済力は低下するだろうが、人の心は豊かになるだろう。



1.10 感情の濃淡
 山間の田舎で生活して15年。地域の人たちの人間関係は、家族ではないが、家族同然の人間関係の中で成立している。生まれも育ちも、お互いが知りあっている。そこで生まれ育ったものでしか理解できない、微妙な規則と感覚と感情がある。他所の土地で生まれ育ったものには、どんなに努力しても理解はなかなか出来ない。三代住まなければ江戸っ子ではない。嫁に来て50年経った人ですら、未だに他所の人。家族の中の他人。どうすることもできない大きな壁がある。接し方を間違えるとトラブルになる。多くの場合には悪意があってのトラブルではなく、善意のすれ違いによるトラブルとなる。悪意があるならば対処の仕様もあるが、善意を元とした行き違いには理屈が通らない。
話し合い(議論)にはならない。良し悪しではなくダメなものはダメということ。よりよい結論を導き出そうという考えはない。悪意でないだけに反省も無く、同じことが繰り返される。人間関係で消耗し、田舎を離れるケースは善意のかけ違いが多いように思う。
 日本の社会では、自分の意見を主張することには寛容ではない。穏便にということは、長いものには巻かれろということ。立場の上のものにとっては都合のよいことである。立場のよわい者には泣き寝入りしろと言うこと。最近は色々な場面で、その傾向が強くなっているように思うのは自分だけだろうか。

日本は島国である。島国根性と言う言葉もある。田舎根性丸出しと言う言葉もある。島国も田舎も考え方の基本は、我田引水だと思う。井の中の蛙。日本の常識は世界の非常識。田舎の常識は、そこで生まれ育った人たちの常識。15年住んでみてそう思う。たかが15年だけだから勘違いかもしれない。でもそんなに見当はずれのことではないように思う。

我田引水の延長戦に「結い」が成立してきたと思う。自分のことは自分でする。他人の世話にはならない。何か世話になったら必ず、それ相当の労力か金品でお返しをする。お互いの共通認識であり、言い方を変えれば掟である。その掟に従っていれば問題はない。掟に従えないときには、「村八分」が待っている。我田引水と結いが、田舎=村社会を支えてきたと思う。その元に米作りがある。水田が無ければ我田引水と言う言葉は生まれていない。田植えや稲刈りの作業が結いの必要性を維持してきた。村社会の結束の元となってきた。村社会が機能し、そこでの生活や文化が守られてきた。しかし最近50年間で稲作農家が減少し、機械化が進んだことで生活も、文化も一気に消滅の道をたどっている。我田引水も結いも死語になりつつある。多くの田舎は限界集落といわれ、消滅した集落も少なくない。

 古いものが滅べば、そこに新しいもが芽生える可能性が生まれる。自分の出来ることは自分でする。自分で出来ないことは、出来る人に依頼する。お互い様と言う関係でいいと思う。
  何か出来ないことがあっても、当然だと思う。完璧な人はいないだろう。お互いに出来ることと、出来ないことは持ち合わせている。お互い様ということで済ませばどんなに楽になるだろうか。出来ないことが恥ずかしいこと、ダメなことではないと思う。
 出来ないからごめん、助けてください。出来るから助けます。それだけの関係でお互いが終わればいいと思う。お世話になったから、世話をしたから、という感情を何時までも引きずることなない。お互いに。田舎の人間関係は濃い。何時までも感情を引きずるから、どんどん加算されていく。お前のじいちゃんはという話にもなる。よそ者は感情の積み重ねが浅い。ベースが違うからお互いが理解をする為には、その辺のことを理解する必要がある。そのことを承知したうえで、感情の濃淡をうまく使えれば、お互いに楽になるだろう。返済を前提としたに「結い」でなく、お互いが返済を求めない「無償の連鎖」が出来ればいいなと思っている。  

米と小麦のこと、お金に頼らないこと

年が明けると田んぼの準備が始まる。水害の後2年間は作柄は悪かった。今までの半分以下の収量でした無かった。今年はどんな対策を立てるのか思案が始まる。

小麦は作付けを増やしたが、新しく始めた畑の獣害対策が後手にまわり、先行き一寸不安な状況。

米と小麦を栽培して15年目。日本は主食の米と麦が、同じ圃場で栽培できる。米は100%自給しているのに、麦は15%程度の自給でしかない。可笑しな農業政策である。日本は主食が100%自給できる環境にありながら放棄している。食料自給率が40%なのに、耕作放棄地が増え続けている。食べ物が無くてどうして生きていくのか。食べ物は農地から生産される。生きるとは食料を確保すること。そのためには、農地を大切にすること。食糧生産は他の経済活動より優先させるのが当然だと思う。実際多くの国ではそうしている。生きるとはお金を儲けることではない。経済活動をする為に生まれて来たのではないはずだ。生まれてきた子供に、お金儲けをしてくれと願う親はいないだろう。健康で健やかな成長を願うはずだ。それがいつの間にか、安定した現金収入がある生活を求め始める。そのために学校でのいい成績を求める。親子の葛藤の始まりである。生きるのに必要なものは、お金で得ることしか出来ないと、思い込んでいると言うか、思い込まされてしまった結果である。一旦経済活動をして、現金を得て、それで必要なものはお金で買う。多くの現代人はお金を介在させなければ、何も出来ないと盲信してしまった。お金は人間が作り出したものである。特にニクソンショック以来、ただの紙切れでしかなくなった印刷物を、世界中が取り合って、一喜一憂している。実体のない青い鳥を、奪い合って血迷っている。「もういいだろう」 心を落ち着かせることの大切さに気がついても。

人が人として生きるために、必要な学びの場であるはずの学校が、廃校になっている。人が人として生きるために、必要な食べ物を生産する農地が、どんどん放棄されている。その結果、人として病んでいる人が増えている。何が大切なのか優先順位の付け方が違う。結果から反省し学ぶことが、必要な時期に来ているように思う。

自分は廃校と耕作放棄された農地を活用しながら、その恩恵で生きている。そこに色々な人たちが出入りしている。学んで食べて寝る。経済活動を最優先しない生き方をしている。そこが誤解され非難中傷の元にもなっている。人格の問題もあるのは事実だが。お金が必要ないと言っているのではない。経済活動がダメだと言っているわけでもない。精神活動と経済活動のバランスが大事だと考え実践しているだけである。

昨日の雨で居間の屋根から雨漏りがした。点検したところ瓦が割れていた。先日解体した家の瓦を置いてあるので差し替えた。水道水を掛けながら確認すればいいのだが、寒いせいもあり省略した。たぶん大丈夫だと思う。自分で修理できればお金は掛からない。材料も放棄されるものである。これを業者に依頼すれば請求書が来ることになる。請求額を支払うことになる。自分で出来ることは自分でする。自分で出来ることが増えれば、支出を減らすことが出来る。支出が減れば収入も少なくて済む。経済活動に費やす時間が少なくなる。昔から「お金を稼ぐ苦しみは死ぬ苦しみ」という。少しだけ苦しみから解放される。

なるべく自分で出来る範囲で、生活することを積み重ねていけばいい。食料も住宅も燃料も教育も医療も、、、、、、。何か特別な資格が必要なわけでない。一寸した考え方の問題である。日本は恵まれた自然環境がある。経済力も社会保障もそれなりにある。
環境を活かす力を身に付ければ、それなりに生きていける。何処にいくのか自分で舵取りをしたらいいだけのことである。心を落ち着かせたら、目の前の景色が違って見える。安心して考えることの出来る環境が大事だと思うが、、、、、。

答えの解っている事を理解し記憶することが、評価の対象となるような学校教育は考え直したほうがいい時期に来ているように思う。大学を卒業してから、悩み病んでしまう若者を、見るにつけそんな思いになる。記憶力も大事だが、思考力はそれ以上に大事だと思う。疑うから考えられる。疑問があるから答えが出る。自分を信じて疑う。疑問を持たないと盲信になってしまう。盲信から自己陶酔が始まり独善的になり排他的になってしまう。疑い過ぎても同じこと。信と疑。何事もバランスが大事。

引きこもりカクメイ

お正月も何事も無く過ぎ去った。今年は「無事是凡人」と生きたいものある。
テレビも新聞もない生活は、余計な情報が入ってこない分だけ、心静かに過ごすことができる。今年の課題は「忘れて」生きたいと考えている。呆ける前に自らの意志で忘れたい。

 三が日は川原家を建て屋台をした。売り上げはともかく、若者との協力で出店できたことはよかったと思っている。自家製小麦粉とジビエで鹿肉まんを販売した。

仕事=雇用=人生というおかしな常識に、多くの若者は本能的に気がつき始めている。現状は引きこもり、不登校という事でしか、自己表現や自己防衛ができない人が多い。現代社会の閉塞感の表れでもある。思考の停滞とも廃頽ともいえる。視線を変えることで解決の糸口を手にすることはできる。
 
現在の日本社会に不登校、引きこもり、ニートと言われる若者が何人いるだろうか。200万人は超えているだろうか?。昔インドを旅していたとき、乞食と言われる経済活動に従事しない(できない)人が2億人、人口の2割いる現状を目の当たりにしたことがある。今のインドの現状は知らないが、当時の強烈な衝撃は今でも自分の中にある。人口の2割は経済活動に直接従事しなくても、家族生活が成り立っている現実があった。実際スラムと言われる場所にもぐりこみ、生活を体験したことがある。もちろん様々な問題はあるが、そこには家族の営みがあった。多くの子供たちのくったくのない笑顔があった。

 今の日本で、家族の中で引きこもりが一人でもいると、家族は暗澹たる気持ちになり、肩身を狭くしながらの生活を強いられてしまう。引きこもりでなくても、今の社会常識という枠から、少しだけはみ出して生きようとするだけで、周りからは集中砲火を浴びることになる。人格や存在そのものを否定されることになる。自分の人生も正に周りからは、否定され続けている人生である。ただ自分の気持ちに素直に生きたい。自分の気持ちが納得できる、生き方をしたいと言うだけであるのに。法律を犯したわけでもなく、借金を踏み倒したわけでもなく、善意の第三者を騙したわけでもないのに。ただ一時定職に就いていないと言う理由だけ、ダメなやつと烙印を押されてきた。戦争に協力しないものは、非国民であるという時代と同じことがおきている。当時どれだけ多くの若者が、赤紙一枚で徴兵され学徒動員され特攻隊とし戦場に散ったのか。国家の為にという大義名分の下で、多くの国民が心身ともに傷ついたのか。今どれだけ多くの若者が、景気回復と言う経済戦争で傷ついているのか。歴史は繰り返すと言うが、理不尽な現実である。

 経済が発展することで幸せな人生が、待っていると言う幻想は崩れた。現実の社会現象が証明している。理屈ではなく現実の事実が実証している。冷静な理性で判断すればわかることである。経済だけでなく、政治も医療も科学も教育も宗教も福祉などあらゆる分野でそのことは実証している。人間が良かれと考え作り出した、社会制度そのものが破綻している。既に破綻している制度に若者をはめ込もうと必死にもがいている。末期症状である。お互いに不幸の連鎖に巻き込まれている。「もういいだろう」 競争を止めても。

 生き方のカクメイを起こすときが到来していると思う。引きこもりカクメイである。疲れたら休んだらいい。気が済むまで休んだらいい。働きたくなったら働けばいい。働くとは経済活動だけではない。精神活動もある。経済活動を休んで精神活動をしたらいい。各自が精神と経済のバランスを取ったらいい。他人の作った社会制度に、無理やり自分を合わせ、従属しなくてもいい。人間の作った社会制度が全てではない。ほんの一部に過ぎない。本は自然にある。その本に気がつけば、自ずから道は開けてくる。経済活動に従事する前に、精神活動をして自己の存在に気がつけばいい。それから経済活動に従事しても遅くない。経済活動は年を取ってからでもできる。精神活動は、若くエネルギーがあふれているときでなければ難しい。ものには順番がある。順番を間違えていることが現代社会の矛盾した現状を生み出している。順番が乱れるから、秩序が乱れる。心が乱れ心身ともに病むことになる。順番とは競争をしての、優劣の順位ではない。本来のあるべき姿である。秩序とは他人から強制されるものではない。自らも意志で自らを修めることである。

 個人差があるが、40歳ぐらいまでは精神活動を最優先させ、ものの道理が理解できたら経済活動をすればいい。若いときは引きこもって精神活動をしたらいい。今の日本社会は感情的に偏りすぎている。理性と感情のバランスを取ったらいい。カクメイの第一歩である。他人を傷つけようというのではない。他人と競争して優劣を付けようと言うのでもない。他人を蹴落として権力の座に着こうというのでもない。人としてどう生きたらいいのか、冷静に考えてみようというだけである。誰に遠慮もいらない。寝る場所と食べ物があればいい。少しのお金が有ればいい。次の世代も同じようにしたらいい。競争を止めたらいいだけのことである。自らの人生を、無駄に犠牲にすることはない。自分で自分を傷つけることはない。まして他人を傷つけるような事態は避けて通りたいものである。

 幸いなことに、今までの多くの人たちの犠牲と貢献のお陰で、カクメイの条件は整っている。日本の社会は成熟してきた。今なら精神と経済のバランスを取ることができる状況にある。経済戦争に白旗を掲げ、休戦したらいいだけのことである。時が来たらゆるやかな経済活動を営んだらいい。多くの人たちが、ゆるやかな人生を送れるようになるだろう。社会がゆるやかな理性の本で、多様な目的観と価値観で成り立つようになるだろう。順番は先ず自然に依存したらいい。次に自分の中に依存できる杖を作りながら、社会制度を活用したらいい。現在の日本には未だ自然がある。疲弊したとは言え社会制度もある。どうせ引きこもるなら、正々堂々と安心して引きこもればいい。引きこもることは悪い事でも間違いでもない。人としての成長過程であり、生きるための正当防衛である。

人間が作り出した貨幣制度と教育制度に縛られ、お金のために不安や恐怖を動機として労働に従事することはない。せっかく人としての生命を受けたのだから、本来の自分に目覚めたらいい。自らの意志で生きたいように生きたらいい。自然を意識して、自然の恵みを享受しながら生きたらいい。
自然を知り、自分を知り、足るを知る。先ずは自分ひとりのカクメイ。正月早々の独り言。

大晦日

本文の前に、お知らせ。
「風の吹くままに」三枝孝之ブログを読んでくださっていたみなさま、お久しぶりです。管理人です。
(三枝本人はワードに文章を作成するだけで、更新は依頼を受けたとき管理人がしています。)
ブログの更新は昨年3月以来ですが、更新していないあいだにブログサービスが新しくなっており、どうしても旧管理画面にアクセスできません。そこで、この際「新・風の吹くままに」を新設しました。2013年3月8日以前のものはリンクに入れておきます。今後ともどうぞよろしくお願い致します。
おまけに、本人の「たまってるから、まとめて更新しておいて」という依頼をうけてみてみると、4月から10本以上たまっているではありませんか・・・
実際書かれた日時に更新を設定していますが、「新・風の吹くままに」のすべての記事は、今日はじめてネット上に公開されました。暇で興味のある方は、どうぞさかのぼって読んでみてください。


今年も大晦日となった。今年は1月に父親を亡くし、4月には65歳最後の日に病で10日間入院し、8月にはぎっくり腰で約2ヶ月動きが取れなかった。大げさに言えば半年は動きが取れなかった。何があっても過ぎてみれば大したことではない。余計な心配は無用だとは知っていても、その時には心が動いてしまう。何時までたっても未熟だという証拠である。

 取ってつけた理屈はいらない。出来ないものは出来ない。出来る事はできる。出来た事が出来た事である。迷いも悩みも苦しみも喜びも出来た事である。出来た結果が自分である。この繰り返しで今年も終わる。新しい年が来たとしても同じことの繰り返しである。

ひょんな事から、正月に本宮で川原屋をだし、屋台をすることになった。屋台は前々からの企画である。来年こそ少しは形にしたいと思っている。
先日耐震ベットの件でNHKの取材を受けた。来年1月には和歌山県内で放映される予定。来年は屋台と耐震ベット何とかしたいものである。

数日前に地元の高校を今春卒業した若者が遊びに来た。卒業後大阪で介護関係に就職したが、直に辞めて地元のコンビニでバイトをしているという。地元での就職先を探しているが、コンビニかスーパーのバイトか介護の仕事しかないと言う。地域の現実である。
今までは、地域に若者が「来る」ことを実証してきた。これからは地域で若者が「生活」出来ることを実証することが大事になる。どうしてという理屈ではない。只「生きる」ということ。
 
既成の価値観に縛られていては解決できない。例え一時の解決はしたところで持続はしない。今までとは違う価値観、人生観を学び確立していけば道は開けてくる。
人間が作り出した社会制度に依存し、従属するのでは、お金が無ければ何も出来ない。
お金を稼ぐ為に盲目的な生き方をすることになる。

自然により添い自然の恩恵の範疇で生きる工夫を実践すれば、少しのお金が有れば生きていける。自然があれば生きていける。土の上での生活を実践すれば、自分らしく生きてはいける。沢山のお金を稼ぐことは大変だが、少しのお金なら稼ぐことは出来る。
少しのお金があれば生きていける。基本は「無償の連鎖」 何故ならば自然の恩恵は無償。

誰でも命があれば生きていける場所「スラム」も、少しだが前進はしている。思いと現実。目に見えない思いが、目に見える現実として、形として少しだが具現化している。

命を大事にすることは自然を大事にすること。こんな当たり前のことが見失われている。
人間の理性の貧しさを実感する。それに比べ感情の強情さには感心する。感情が理性を吹き飛ばしている。感情という妖怪が世の中を支配している。自分の中でも感情が理性を支配することが多くある。困ったものである。理性的なスラムを作ろうか。何処まで理性を保つことが出来るのか。理性的に自分を観察していればわかることである。

人間には理性も感情も備わっている。要は使い方である。理性で自分を傷つけ、周りを破壊することも出来る。感情も同じこと。人間として自分を成長させ、周りを安心させることも出来る。天使にも悪魔にもなる。

わが子も4歳になり日々成長している。親としていま出来ることは、出来るだけ安心感が育つことの出来る環境を提供したいと思っている。理性も感情も安心感が根底にないと不安定になる。出来るだけ甘やかし、我儘に振舞うことを受け入れている。自我が目覚めたとき、安心して悩み迷い生きていける力が備わっているようにと願っている。

共育学舎には今年も色々な人の出入りがあった。自分の目の前を通過した人が何を思い何を感じたのかは解らない。人其々である。好意を感じた人もいれば、敵意を感じた人もいただろう。同じ自分を見ても感じ方は人によって違う。自分は何時でも何処でも自分でしかない。褒められてよし、貶されてよし。非難中傷、誤解も避けては通れない。

一直線に」わが道を生きたいと思いながら、右往左往しながらの道のりである。ともあれ今年も生き延びた。

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